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2007-12-31
第29回 「帰郷」

年末年始、都心から人の数が減りいつも込み合う道や街がストレスなく行き来できる
感覚は毎年新鮮である。特に元旦の午後は道ばかりか空気までも澄んでいて、 まさ
に新年の新たな風といった雰囲気すら感じさせるところが、僕は気にいっている。

上京して五年、一度も元旦を地元で過ごしていない僕は毎年このことを実感しながら
道を歩く。帰らない理由は仕事の都合だが、別にそこまで帰りたいという気持ちが
ないことが一番の理由といってもいいのかもしれない。僕の場合、ひとたび帰りたい
という欲にかかると、例え滞在時間が一時間以内であろうが絶対になんとかする
タイプだからだ。幸い、東京に一人で暮らし始めてからも孤独感というものとは無縁
のままここまで来れている。むしろ周りに僕を詳しく知る人間がいない生活に開放感
を感じていたくらいで、全くもって住みやすい街、それが東京なのだ。

しかし、このところ‘帰郷’とは自分のためにすることではないということを少しずつ
理解できるようになってきた。顔を見たがっている人のもとへ帰ることも一つの義務
の様に思える。今年はタイミングよく関西への仕事が入り、ゆっくりこそできなかった
がその義務を果たすことができた。久々に会うと何故かこちらにも妙な照れがある。
勿論、全員身内なので男女間で起こる感覚とは別物なのだが、この照れが一体
どこから来るものなのだろうか、少し不思議だ。
幼い自分を知る人の前では人は背伸びを忘れ、等身大の素顔に引き戻される。
その素顔のどこかに隙を見せてしまいそうになる時が、照れ臭いのかもしれない。

今年も明日に迫った元旦。空は晴れるだろうか。 071205_160119_3


2007-10-09
第28回 「公衆電話」

時代の変化、需要に応じて街角から消えていったものは数知れないだろう。

その中でもここ十年で特にその変化を見せているのが公衆電話という存在だ。僕が子供の頃にはまだ国道沿いや通学路には必ずといっていい程公衆電話があり、利用した経験も思い出される。携帯電話という概念がなかった時代、自宅や会社以外の連絡手段は公衆電話にかかっていた。だから駅前でメモ帳片手に十円玉を縦積みにしてせかせかと伝達をしているビジネスマンの光景もよくある日常風景だったのだ。それが今では携帯電話のバッテリー切れを除けば殆どの用事は歩きながら話す。

ここで一つ疑問になるのが、人間はいつ頃から会話を聞かれることに違和感を持たなくなったのだろうか。喫茶店やプラットホームでの相手有りきの会話とは訳が違う。本人は会話として成立しているという錯覚の中でやり取りを第三者におおっぴらにしているのである。そもそも公衆電話のアクリル製のボックスの役目とは、電話器の保護+独立した空間の確保というのが重要なポイントなのだ。あの囲いが人に発言する勇気を与え、聞かれる羞恥心から解き放つのだ。だから多少場合を変えてでも、あえて電話ボックスを探して電話をかけることに一つのドラマがあった。

便利さと求め易さが最優先される時代では過去の発明は名称だけが残り、その背景にあったドラマまでは語り継がれない。それは無理もないだろう。なぜならばそのドラマには模範はなく人それぞれが記憶だけが、最後の記録なのだから…

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2007-05-28
第27回 「僕の作業場」

誰にでも‘行きつけの店’といったものが一つや二つはあるものだろが、僕の場合酒をあまり好まない性分故、専ら喫茶店をその場所としている。長いときは平気で四、五時間入り浸っていることもある。逆を言えば、ものの十五分程度の余裕ではわざわざ入ろうとも思わないのだ。目的は読書か書き物をしたいと決めた時で、どこか自分に強制を命じる意味を込めて喫茶店に入る。人によっては自宅の方が静かだし集中できるという人もいるだろうが、周りに余計なもの(移り気を誘うもの)がないということは僕にとって何よりの集中力を産むものなのだ。
日本に喫茶店が一番多く存在していた時代は昭和三十年代がピークだと言われている。減少の理由は各々の自宅環境が喫茶店の備え持つ居住性を時代とともに上回ったということだろう。かの大作詞家の先生もかつては「喫茶店に居ればコーヒー一杯でクラシックが聴き放題だった」ということを理由に仕事の大半を喫茶店で熟していたという。それなら確かに喫茶店でないとダメな理由も解るが、この便利にも磨きがかかった時代にあえて喫茶店に出向いて仕事もどきをしようという僕は、相当なアンチテーゼかもしれない。しかしこれは個人の妙な懐古主義や独自の美学などといった重苦しい考えによるものではなく、これが普通だと実感しているからである。
この様な‘細かい普通’を積み上げで非凡な人生を狙う。今後も持ち続けていたいテーマだ。

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2007-05-09
第26回「夕焼け」

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夕焼けを見ると落ち着く。近頃の季節感のない雨続きに気分はもやもやと燻っていた。誰が示したわけでもないが夕焼けにはどこか懐かしさの象徴のようなところがある。これは心が一呼吸置く時、過去を振り返る癖を持つ人間の性分のせいだろうか。

では何故過去が夕焼けなのか、、、

幼い頃を思い出してみる。子供の目線の行きどころというのは概ね極端なもので、一つは動くもの。そしてもう一つが大きなものだ。単純な解釈でもって目にしたとしても確実なセンセーションを感じるのが巨大物。子供にとってそれが魅力なのだろう。しかし大人になったからといって、急にその感覚を失うというわけではない。要は気持ちの問題で、感心するという動作を知らず知らずの内に省略して生きるように変化しているのだ。個人差はあるだろうがこの傾向は絶対である。絶対だからこそ忘れてしまっては勿体ない。

時には意識して感心してみるという行為が人生を楽しいものにしてくれる。

…と僕は信じたい。


2007-02-26
第25回「一駅分の季節」

まるでトンネル内の溜まった空気を押し出すホンプのごとく勢いよく滑り込んで来る地下鉄。地下だというのに時には地上以上の突風を巻き起こし、プラットホームに待つ人々 を困惑させる場面もよく見かける。思えば地下には季節も時間も無い。無いと言っても それは、感じ辛いという意味だ。およそ気温も光量も一年を通してほぼ一定に保たれて おり、特に天気などに関しては判別のしようがない。雨の日に地下鉄に傘の忘れ物が多く見られるのが、例の一つではないだろうか。地下だけではない。ここ30年で都市部の冷房率は100%に迫る勢いで、ひとたび館内に入ってしまえばそこには季節と無縁の快適な空間が確保されている。夏期の通勤時の蒸せ返りも車内冷房の普及により幾分回避されたはずだ。このような快適な空間造りは仕事の効率を上げ、人々をストレスから開放させる。しかし、ただでさえ日本の四季が薄れ始めている今、ここで意識としての‘季節感’を無くしてしまうとどうなるだろうか。寒い時は温もりをもとめて、暑い時は涼しさを探す。どこか季節を毛嫌いしがちな生活姿勢の中で、あえて一駅余分に歩いてみよう という気持ちを忘れずにいれる心でいることで、毎日は日ごと移り変わるだろう。
贅沢な話だが。。。

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2007-01-23
第24回「窓」

窓は室内から外を眺める為のスポットであり、また建物を彩る上での重要なパーツでもある。沢山の窓が壁一面にところ狭しと並んでいる様子は、実に人工的で美しい。お互いかなり近いところに位置し合っている窓だが、そこから覗く景色は覗く人によって全く違った景色に映るものだろうから不思議だ。僕の中で窓というと高校生の頃、教室から覗いていた景色を思い出す。何故それを思い出してしまうかというと一番眺めていた時間が長い景色だったということだろう。別に何を見るわけでもなくただ暇潰しにぼんやり外を眺めては、時間が経つのを待っていた気がする。今思うとそれはものすごく贅沢な時間だったのだろう。さほど変化のない画をぼんやり見続ける。この余裕、素晴らしい。間接視野として窓外の景色が安らぎやリフレッシュをさせてくれることはあっても、じっくり変わらぬ景色を見続けることはなくなってしまっていた。時間が出来るとつい何か他の事に熱中してしまう性分なもので。しかし窓景はやはりいいものだ。季節や朝夜以外の目に見えない移り変わりを楽しめるような気持ちでいることで、景色はまたひとつ新しくなる。

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2006-12-04
第23回「ツクリカケ」

ものの造りかけというのは実に魅力的である。未完成が魅力的という意味ではなく、

途中経過を目の当たりにするという行為、事実に何故か満足感を得てしまう。それは

完成すれ塞がれてしまう空を惜しんでのことだろうか、いやそればかりではなさそ

うだ。街の発展をリアルタイムで目撃するということは、その時代を生きた証として記

憶に残る。完成すれば何十年とその姿をとどめることになる巨大な造形物の生まれる

姿を目撃できることに、今の時代を生きていることを実感できる。23


2006-09-28
第22回「本質」

朝焼けがきれいだとか、早起きに得を感じるといった感情は極一般的なものだろう。ちなみに僕もその一人なのだが、こういった感情は『朝』や『早起き』など、時間帯や行為そのものが放つ魅力ではなく、その人にとって、そういった行為、現象がどれだけ希少価値に値するか、、その度合いによって初めて魅力がわかる。そういうものである。僕はここのところ自宅で朝まで作業していることが多かったため、朝焼けは毎日のように目にしていたが、この場合の朝焼けとは言わば、僕にとっては就寝時間を示すシンボルにしかすぎない。朝日が昇る。すると「あ~、そろそろ寝ないとなぁ…」と、こんな具合である。しかし写真の朝焼けは先日、早朝ロケに向かった際に撮ったもので、この場合の朝焼けは『朝』という名に相応しく、まさしく一日の始まりを示している。同じ時間帯に起きている、同じ現象でもこうも映りかたが違うものかと関心してしまった。規則正しい生活とは、人間の本質を満たし、感情を正常に導いてくれる底力が備わっている。論より体感することの大切さを意外なPhoto ところから教えられた気分であった。


2006-06-14
第21回「雨の物語」

本州も本格的に梅雨入りをし、手荷物に傘が加わり大掛かりで困っている(僕は鞄はおろか、荷物は財布と携帯さえあれば良しとするたちなので…)。雨というものは農業やダムなど、職業的な需要を除けば、たいていの場合で嫌われ者扱いされる傾向がある。週末に雨予報を食らった日の事を思い起こせば、誰もが経験のある思いだろう。傘をさしたままだと人混みを歩くのにもストレスを感じる上、洋服にも気遣いが必要になる。しかし不思議なもので、これが歌や映画の世界ともなると立場は一転し、ロマンスを語る上で欠かせない小道具として、居場所を確保しているのだ。人は本当は雨が好きなのだろうか。濡れる事を回避する為に一生懸命な現実世界とは裏腹に、架空の世界ではあえて傘をささずに佇むなどといった描写を多く見かける。この矛盾は一体何か。およそ、雨=悲壮感といった具合に哀しみの代名詞的役割を雨に任せているのだろうが、どうも現実世界では単なる‘欝陶しいもの’で終わってしまう。梅雨本番のこの季節、いっそ雨の物語のひとつでも書いてみようか。020_1


2006-05-02
第20回「空の使い方」

面白い風景があった。

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何がかというと、写真右上に小さく浮かんでいるもの、飛行船である。飛行船とはガスとプロペラを動力とした、いわば気球のバージョンアップ版のような乗り物…というのが僕の解釈であり知識の限界であるが、この乗り物、妙に過去の匂いを感じる。ヘリコプターやジャンボジェット機、はたまた宇宙にまで飛び出せるロケットまでもが大空を支配している今、飛行船の様にプカプカと漂いながらのんびりと飛行する姿は、明らかに‘時代おくれ’である。誤解があるといけないので訂正を加えると、ここでの‘時代おくれ’とは河島英五氏のヒット曲、「時代おくれ」的な意味の引用として解釈頂きたい。かつては交通手段の一つとして活躍していた飛行船も今残る殆どの機体が、‘広告手段’と姿を変え、その活躍の場を移している。広告といえば、同じ空を彩った仲間として、アドバルーンを思い出す。…とはいってみたがこの記憶、実に微妙なところで、僕自身が実際、アドバルーンの目撃者なのかどうか曖昧なのである。存在、役割、形状と全て理解はしているのだが、この情報が実物から得たものなのか、何やら過去の資料から得たものなのかは未だ不明なのである。話を戻すと、アドバルーンが姿を消した理由は何か。様々だろうが、都市の高層化による、視界の悪化はその一つであろう。昔、空は広かった。空に人はいない。誰のものでもない。だから人々はそこを広告の場所に選んだ。地上で働き、作り上げた商品を空を使って宣伝した。しかし、今人間は空を職場とし、住居とした。高層オフィス、高層マンション…いつ頃からなのだろうか。人が見上げることを忘れ、見下ろす快感を求めるようになっていったのは。「上を向いて歩こう」。今、この曲の続編書くとしたら、タイトルに迷ってしまう。


 
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