時代の変化、需要に応じて街角から消えていったものは数知れないだろう。
その中でもここ十年で特にその変化を見せているのが公衆電話という存在だ。僕が子供の頃にはまだ国道沿いや通学路には必ずといっていい程公衆電話があり、利用した経験も思い出される。携帯電話という概念がなかった時代、自宅や会社以外の連絡手段は公衆電話にかかっていた。だから駅前でメモ帳片手に十円玉を縦積みにしてせかせかと伝達をしているビジネスマンの光景も‘よくある日常風景’だったのだ。それが今では携帯電話のバッテリー切れを除けば殆どの用事は歩きながら話す。
ここで一つ疑問になるのが、人間はいつ頃から会話を聞かれることに違和感を持たなくなったのだろうか。喫茶店やプラットホームでの相手有りきの会話とは訳が違う。本人は会話として成立しているという錯覚の中でやり取りを第三者におおっぴらにしているのである。そもそも公衆電話のアクリル製のボックスの役目とは、電話器の保護+‘独立した空間の確保’というのが重要なポイントなのだ。あの囲いが人に発言する勇気を与え、聞かれる羞恥心から解き放つのだ。だから多少場合を変えてでも、あえて電話ボックスを探して電話をかけることに一つのドラマがあった。
便利さと求め易さが最優先される時代では過去の発明は名称だけが残り、その背景にあったドラマまでは語り継がれない。それは無理もないだろう。なぜならばそのドラマには模範はなく人それぞれが記憶だけが、最後の記録なのだから…